小説『春を待つ蟻』第二章その三

「ねえおばちゃん。おばちゃんは子供の頃からそうだったの? お母さんすっごく怒らなかった?」

 愛名の目がキラキラと輝いている。きっと仲間を見つけた気分なのだろう。

「そりゃあもう怒られた。滅茶苦茶ね。……でも、ある時から怒られなくなったね」

 言葉の意味がわからないのか、姉と似た顔の少女は首を傾げている。
 私は姉の十歳当時の姿は知らないけれど、きっと姉もこのような表情を見せていたのだろう。

「……ごめん愛名ちゃん、このことはあんまり言いたくないんだ」

 私はまた窓の外に視線を向けた。流れる景色はまた田舎の色合いを濃くした、緑豊かな風景に変わっている。

 ……これは誰に対しても言いたくない。

 きっと誰かに言ったとしたら、二十年近く前のそんなことを未だに引きずっているの? と驚かれそうな出来事だろう。
 だとしても、私の中でまだ決着のついていないものなのだ。
 愛名の期待に満ちた目を考えると、おどけたほうがいいところなのかもしれないが。

 けれど愛名から一言も言葉が返ってこないことが気にかかって、私はまた愛名に目を向ける。
 すると彼女はまるで凍りついてしまったかのように、青白い顔をして固まっていた。

「……愛名ちゃん? どうしたの?」

 私がかけた声も耳に届かないかのように、身動き一つしない。
 ――これは私の過去に対する反応ではない。そう直感した。

「愛名も……」

 酷くかすれた声だ。

「愛名も……言いたくないことある」

 彼女は視線を漂わせたのち、私の目を見た。その怯えた目は私の反応を伺っている。
 ――やっぱり愛名は私に似ている。……誰かに救ってほしいのに、誰にも言えなかった、あのときの私に。
 私は目を伏せてから、また車外に目を向ける。

「……きっと誰にでもそういう事はあるよね」

 こんなことしか言えない自分が情けなかった。
 ……私は心の中で『姉ちゃん』と呼びかける。
――姉ちゃん。……私は頭が悪いから、姉ちゃんみたいに正しい答えが見つからないよ。答えを教えてよ、姉ちゃん。

 私は下唇を強くかんだ。

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