小説『春を待つ蟻』第三章その十

 黒のワンボックスカーのドアを開けると、カシャカシャと軽い音が聞こえてくる。
 そのまま後部座席を見ると、チャイルドシートに乗った幼い男の子が、おもちゃを振り回して笑っていた。

「息子さん、可愛いですね。何歳ですか?」
「いまね、一歳と六ヶ月。もう大暴れして大変。愛名ちゃんシートベルト閉めたかな?」

 「はい」という声が聞こえてきたが、愛名の声は幼児の声にすぐにかきけされてしまう。
 体をひねって後部座席を見ると、フードを被った愛名が直美さんの息子のほうを向いていた。
 もしかしたら、私が愛名を初めて見た時と、同じようなことを考えているのかもしれない。

「本当は昨日会えたらよかったんだけど、母の都合で息子を預けられなくてね」

 直美さんは車を発進させながらいう。

「いえ、直美さんにお会いすることができて嬉しかったですよ」

 また後ろからシャカシャカという音と、キャッキャと笑い声が聞こえてくる。

「……息子が生まれてね、真名の気持ちがよくわかったの、私。きっと真名にとってみれば真衣ちゃんは娘みたいなものだったんでしょうね」

 直美さんの声は抑えられていた。後ろから聞こえてくる嬌声がずいぶんと場違いなようにも思える。
 私は前を向いたまま、「そうですか」とだけ、答えた。
 「そうですね」とはとても言える気分ではなかったのだ。

 先程愛名の生命の重さを、私は実感した。
 けれどそれはきっとまだ浅く、重量だけとらえただけに過ぎない。
 内部を見たら、きっと私は臆してしまう。

「……私、だからこそわからないの。なんで真名が自殺なんてしたのか」

 隣を見ると、直美さんはバックミラーを確認していた。
 きっと愛名に聞こえているか気にしたのだろう。
 しかしすぐに直美さんは正面に目を向けた。

「あれほど愛名ちゃんのことを愛していたのに……。真名はなんで」

 独り言のようにつぶやいた声は、私の耳にもやっと届く程度だった。

 やはり直美さんも姉の自殺に納得がいっていないのだ。
 きっと誰も姉の死に納得していない。
 自殺というのは残されたものに「なぜ?」という疑問ばかりを投げかける。

 ――愛名は姉の異変に気が付いていたのだろうか?

 そんなことが頭をよぎる。
 とてもじゃないが、今の愛名にそんな問いを投げかけることは出来ない。
 愛名が心に受けた大きな傷を更にえぐることになってしまうのだ。

 今、この状況を責めるとしたら、自殺した姉に対してだけだった。

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