小説『記憶のいろは』第八章その五

 その時だった。
 今まで思い出した過去が波のように襲ってきて、私を記憶の世界に飲み込んでいく。

 そこはあのカッターの席決めをするあの教室だった。
 私は真ん中あたりの席で、黒板を見つめている。
 黒板にはカッターの座席表が書かれていた。
 教壇にはダンボールで作られた簡易のクジの箱があり、男子生徒が順々にその箱に腕を差し込んでいた。

 ……隣の席、誰になるんだろう。できればあの人になればいいのに。

 少なからぬ胸のときめきを抑えながら、私は田ノ下と書かれた位置を確認する。


 二時限目の授業が終わり、教師の書いた古文が日直により、少しずつ消されていく。
 一時休憩に入った教室は耳をふさぎたくなるほどうるさくて仕方がない。
 私は視線を彷徨わせ、ぼんやりと『なんでこんな学校にこなきゃいけないんだろう』と考えていた。
 私にはこの休憩をともに過ごす友人がいない。
 この十五分間なんて無ければいいのに。いつだってそう考えていた。

「田ノ下、何こっち見てんだよ! 見てんじゃねーよ!」

 まただ。また始まった。
 このグループは中心人物の女生徒が私の席の近くにあるからか、いつだって私の近くに陣取り、私を攻撃して笑う。
 この前は「田ノ下、あいつ仮病使って授業休んでるんだぜ」と廊下ですれ違いざまに言われた。
 確かに私は保健室に行く回数が多い。
 それは脂汗が流れるほどに胃がキリキリと痛み、授業が受けられないからだ。
 けれどそんなことはあの中心人物の知ったことではないようだ。
 その時隣りにいた生徒は別クラスだったので「ちょっとやめなよ、傷つくよ!」とたしなめてくれたが、「あいつに心なんて無いし!」と馬鹿笑いをしていた。

 ……みんな、みんな、死ねばいいのに。

 
 我に返り、私は自分の手をじっと見つめた。
 違う、私は学生じゃない。大人の手をした私なんだ。
 でも私、記憶の中で名前が……。
 私は天を仰ぎ、言葉にならない声で絶叫した。



 ……どれほど時間が経ったのだろう。
 全く時間は経っていないような、途方も無い時間が過ぎ去ってしまったような、不思議な感覚がする。

 のどが痛い。目が痛い。体のすべてが重くなり、何をするのも億劫な気分だ。

「……落ち着いた?」

 声が聞こえてきた方をゆっくりとした動作で見ると、そこには聡美さんがいた。
 先程までと打って変わってか細い声だ。
 彼女は肩を上下させてなんとか息をしているようだった。

「……ひまわりが過去を思い出すたび、私の心が傷つくって言ったでしょ」

 下を向く彼女の顔から一粒、涙がこぼれ落ちる。
 その涙を見て、ようやく私は彼女が私だと実感した。

 私の忘れていた記憶は聡美さんの現実。
 彼女はその現実を忘れられず、今まで背負って生きてきたのだ。
 そう考えると目の前の彼女が急に哀れすら思えてくる。

「私が生きていく道は、美衣とともに歩むしか無いの。彼女だけが私の全てを理解して、私を慰めてくれる。だからお願い、美衣を返して……」

 部屋の電気が数十秒消えたかと思うと、また点灯する。そしてまた部屋が揺れる。

「聡美さんも知ってるでしょ? 私、鍵を失くしちゃったんです」

 また目から涙が溢れ出てくる。これはきっと謝罪の涙だ。
 彼女を救うことは私にはやはり出来ない。
 けれど私の言葉に、聡美さんは子供がイヤイヤをするように首を振る。

「ひまわりが鍵を確認したのは現実の世界。ここの世界じゃない。ここでは無いと思えば無い。ここでは……あると思えば、あるの……」

 彼女の顔が痛みを堪えるかのように歪んだと思った瞬間、彼女はローテーブルに突っ伏した。
 私は反射的に「聡美さん!」と腕を伸ばすが、彼女は上半身を伏せたまま、大丈夫というように一回頭を縦に振った。

 今度は完全に部屋の明かりが消えた。
 そして地響きが遠くでなったと思ったらものすごい速さで近づいてきて、部屋全体が大きく揺れ動いた。

「じ……地震?」

 なかなか電気が灯らない。
 闇の向こうから、シルエットのみとなった聡美さんの弱々しい声が聞こえてきた。

「……あなたにすべてを任せる。この世界とともに、美衣とともに消え失せるか、この世界を救うか。……これが私のあなたへのせめてもの贖罪。あなたが決めて」

 室内は激しい音が鳴り響き、最後は本当に彼女が言ったことなのかわからない。
 けれど私の心にはちゃんと伝わってきた。

「聡美さん! もし私がこの世界を消したら、あなたはどうするんですか!」

 轟音に負けないほど声を張り上げたが、もう返事はない。

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