小説『記憶のいろは』第十章その五

 このベランダは小高い丘の上にあるらしく、眼下に深い森が広がっている。
 風に吹かれ木の葉や枝がざわわと音を立て、それに呼応するかのように甲高い鳥の鳴き声がする。
 むせ返るような濃い、緑の香り。

 左手の方を確認すると、空がほのかに明るくなり始めていた。
 黒から濃紺、青、緑、オレンジ、そして赤。
 それらの色がグラデーションになり、地上を染めていく。

 私はその圧倒的な様子を、言葉なく見つめていた。

 光の帯が広がってくる。赤い陽の光は夜を切り裂く閃光となり、地上を付近が真っ赤に色づいてゆく。
 バサバサという羽音と長い鳴き声を放ちながら、鳥の群れが森から飛び立つ。

「すごい……」

 口からついて出た言葉は、この景色の前にあまりにも陳腐だ。
 けれど、私はそれ以上の言葉を知らない。

「これがあたしの愛した世界なの」

 いつの間にか私の右隣に美衣さん、猫田さんが立っていた。
 美衣さんたちは台に乗っているらしく、肩がちょうど柵の高さだ。

「今はこんなに自然豊かだけど、あたしが生まれたばかりの頃は、本当に何もなかった。でもね、少しずつ木が育ち、森になった。聡美の心が安定していくほど、この世界が育つって気がついたの」

 そして柵の間から腕を伸ばし、東の方を指差した。
 いつの間にか太陽は頭を出しており、その方向を直視することが出来ない。

「今は太陽の光で確認できないけど、向こうに街があるの。その前を川が流れてる」

 ……私はその光景を知っている。美衣さんの画調が変わった最初に描かれた絵だ。

 街の前で佇む少女。その背中は物悲しかった。
 今ならあの少女の心情が理解できる。
 街を寂しく見つめる少女は、きっと現実世界へのあこがれと悲しみだ。

「その川の近くで、猫田さんと出会ったの。猫田さんは私の希望だった」

 東の空は赤から青に少しずつ変化していく。
 美衣さんは少し指を右に動かした。森の隙間をぬって、太陽の光を反射している場所。
 あれはきっと湖だ。

「猫田さんはこの世界で楽しむ方法をあたしに教えてくれた。あの水浴びの絵はおとなしく描いたけど、本当はただの水遊び」

 美衣さんは自分のいたずらを思い出したように笑う。

「この世界にはノームさんとか、妖精さんとかとにかく不思議な人達がいっぱい居るの。猫田さんと一緒に遊んだりしたんだよ。本当に楽しかった」

 あの絵はみな、とても写実的に描かれていた。
 あの時は『見てきたように』と思ったが、美衣さんは本当に見たままこの世界のことを描いていたのだ。

「空飛ぶ妖精さんと鬼ごっこした。すばしっこくて全然捕まえられないの。ベガサスさんの背中に乗せてもらったこともある。翼をはばたかせる度に髪の毛がぐちゃぐちゃになって大変だった。ノームさんはとってもとぼけているけど、森になる美味しい木の実や果実を教えてくれた。火の鳥さんが近くに来て、髪がちょっと焼けて大騒ぎしたこともある。……毎日毎日楽しくて絵を描く暇もなかったぐらい」

 その光景を思い浮かべるのはとても簡単だった。
 きっと美衣さんはお腹を抱えて笑っていただろうし、猫田さんはそんな美衣さんを見て喜んでいたはずだ。

「それでこちらの住人たちが式を開いてくれたんだ。あれは別に森の女神になるとか、そういうことじゃない。こちらの住人になったという認定式だったの。あたし最高の気分だった……」

 美衣さんの腕が、力なく落ちていく。
 その理由はなんとなく察しがついた。
 美衣さんの宴の絵に続いて描かれていたのは、森が人々に焼かれるシーンだ。
 それを証明するかのように、湖近くの森の一部が黒く焼け焦げ、葉のない真っ黒な木が乱立しているのが見て取れた。

「ひまわりは聡美の自伝読んだんでしょ?」

 私は「はい」と短く答えてみるが、美衣さんからの返事がなかなか返ってこない。
 目を向けると、美衣さんの目には大粒の涙が浮かんでいた。

「あの自伝はだいたい本当のことが書かれているの。現実世界であたしは姿を持たないから、財布を拾ったとかそういうのは聡美の創作の部分はあるけど。でもね、あたしにとって一番の嘘は聡美が苦しい時にあたしとの連絡を絶ったって部分。本当は……聡美はあたしに助けを求めてた。でもあたしはそれを無視したの。隆志がいるから大丈夫。そう思い込んで助けなかった……」

 美衣さんが震えながら涙するのを、私はただ見守ることしか出来ない。
 猫田さんは美衣さんの背中をさすり、
「美衣ちゃん連れ回した猫田が悪い。美衣ちゃん、悪く無い」
 と慰めている。

 私は美衣さんから目をそらし、空を仰いだ。
 もう空に夜の部分はほとんど残っていない。
 空は水色、薄い雲がコットンのように広がっている。
 美衣さんの心が伝染したように、せっかくの青空も物悲しく見えてしまう。

「……街の人間が森に火を放って、沢山の生き物が死んだ。あたしはその様子を見て、やっと聡美の異変に気がついたんだ。だからあたしは……聡美も、この世界も絶対に守るって決めた。隆志も居なくなったし、あたしが守らなくっちゃいけないって。だから、だから……」
「もう、大丈夫。美衣さん、それ以上話さなくてもわかりますから。だから聡美さんの心の安定を求めたんですよね。美衣さんが必死になった気持ちは、痛いほどよくわかります」

 うああという叫び泣きに、私は無意識に美衣さんを抱きしめていた。
 胸の中で美衣さんが「ひまわり、ごめんなさい、ごめんなさい!」と続けるから、胸がキリキリと締め付けられる。

「美衣さんが悪いんじゃないんです。何も確かめずに酷いことをしたのは私の方です。ずっと辛かったんですね、悲しかったんですね。私こそ、本当にごめんなさい」

 小さな子の悲しみが癒えるまで、いつまでも抱きしめていたかった。
 もう二度とこの子を泣かすようなことはしたくない。
 強がりを言わなくていいように、私はこの子を守り続けよう。そう心に決めた。

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